英教史: 月報216号

日本英語教育史学会月報216号を発行。最初のページは学会サイトに掲載しています。
12月例会の出来先生のご講演は、とてもよかったです。先生と同じ学会で、いつも親しくご指導いただいている幸せを、今年も、何度も、感じています。ほんとうに有難うございます。
毎月のように発行している月報。翌月の予告があるのだから、もっと早くに発行したいと思いながら、いつも土壇場です。年内に発行できてホッとしているところです。
来月の例会情報は、ここ
いつものように、EDITOR'S BOXを紹介します。

▼今年の十大ニュースや今年の三冊など、いろいろと振り返る機会の多い年末です。そこで私も、と思い立ち、定期購読している雑誌を1年分ぱらぱらとめくりました。今年一番刺激を受けたのは、『英語青年』11月号の鼎談「文化史研究と文学研究の接点をめぐって」でしょうか。歴史の見方、テクストの読み方、そして想像力の大切さ、などなど、鋭い一言一言にドキリ。この中で言及されていた『路地裏の大英帝国』は、豊富な図版を用いて18、19世紀の英国生活文化史を描いています。海水に浸かったり飲んだりする健康法のこと、水代わりにビールを飲んだ人がコレラ感染を免れたこと、こうした都市化の中での人々の生活が実証的に興味深く紹介されています。「路地裏の」と聞くとすぐに「少年」を思い出す私ですが、この書と出会ったことで英国の歴史に一層の関心を持つことができました。
▼相変わらず「日本の古本屋」のサイトにお世話になりっぱなしの一年でした。たぶんこんなのは無いよなあ、と検索して、見つかったときの嬉しいことうれしいこと。最近入手したお宝は、広島文理科大学英語英文学研究室が編纂した雑誌『英語教育』(英進社)創刊号から10号まで(昭和11年9月〜昭和12年7月)。きれいに紐で綴じられたこの10冊、どうやらどこかの図書館から出た模様。値段は内緒です。めくってみると、面白い記事が次々と。「まあ、これくらいでいいだろう」ではダメだ、理念を持て、と訴える第2号の巻頭言。第7号の彙報には「廣島文理大・高師の英語科志願者の殺到振りは英語廃止問題の云々される時代に逆行する現象として面白い」。さらには、たびたび遅延のお詫びが入る編集後記など。記事の紹介や感想を書きたいのですが、この月報にも「遅延のお詫び」が必要となるので、それはまた別の機会に。
▼今年度後期は「講読」の授業で映画を使っています。ワークシートや活動を用意し、流れるような授業の組み立てをめざしながら、ふと立ち止まることがあります。授業で「映画を使う」と言った時点で、ツールとしての捉え方に傾いている私がいます。この映画に原語で触れることができただけでも英語を学んでいて良かった、そう思える作品を紹介するだけで十分ではないか、と思ってしまうのです。例えば、“Life isn’t always what one likes.”といった台詞。こうした各場面の名セリフを集めて「英会話」に備えるのではなく、その一言に凝縮されたストーリーに自らを投影し、人生の機微を味わう。それもまた、実用を離れたところで大切な、英語教育の役割ではないのだろうか、と。(ところで、私が授業で使っている映画は何でしょう?)
▼英語教育史上の映画の位置については、いずれ研究対象としてみたいところです。喜多史郎『シナリオと口語表現』が出たのは50年以上も前。福原麟太郎が風物知識の観点から映画の効用を述べたのが70年ほど前のこと。50や70という数字は、著作権保護年数の議論の中でよく目にしますが、この年数の間に「授業に映画を絡める」テクノロジーは大きな変化を遂げています。視聴覚教材や教具といったメディア論から、あるいは映画の持つ思想的価値の面から、様々な議論が展開できそうです。
▼散散散らかった部屋を、年末くらいは何とかしよう、と思って片付け始めるのですが、手にした一冊が戻るべき場所に辿りつく前に、連想の虫が暴れ始めます。そういえばアレはどこだっけ?と探し始めたら最後、次から次へと別のものを引っ張り出して、片付くどころか結局一層の荒れ野原と化してしまいます。その途中で頭に浮かんだ事柄の一部が、この欄の文章のネタになっていきます。
▼例会の出来先生のお話に戻ります。相良武雄という名で達意の英文を投稿し続けた方があった、ということをご紹介くださいました。ペンネームというのは面白いですね。すぐに思い出したのが「英語つれづれ話」の伊月 宏先生。さりげなく恩師のお名前を忍ばせるあたり、まさに達人のペンネーム。いつきひろしではありませんよ。
▼そんなあれこれを考えながら、もう来年が目の前に迫っています。今年もまた、夢のように過ぎていった一年でした。皆様どうか良いお年をお迎えください。1月の例会は第2日曜日。東京でまたお会いしましょう。(夙夢)