英教史:月報221号

日本英語教育史学会の月報221号を発行し、会員への配信、発送を終えた。(ウェブサイト上の表紙ページはここ
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先週開かれた、学生たちのバレーボール大会に、教員チームを組んで出場した。練習ではうまくレシーブできても、実際に相手のサーブを受けるときには、なかなか思ったところへ返せない。うまくさばくコツというか、微妙な身のこなしを習得するには、豊富な基礎練習と実戦経験が必要だな、と思った。
英語学習も同じかも知れない。定型練習を繰り返す、実際に使う場を持つ。基礎練習の段階では、こうすればこうなるという「分かる」プロセスも重要だろう。そんなことを考えながら、同僚と反省会へ向かった。
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今月は例会での発表。発表を前に、英語教育の中での訳読とオーラルの歴史を振り返っている。しばしば訳読は「訳毒」と揶揄されるし、昔は「変則」と呼ばれた。「正」しくない「変」なものと捉えられていたのか、とあれこれ調べ直してみる。

  • 外国人教師について外国語を正確な発音から学ぶ「正則」、日本人教師のもとで訳読と内容を学ぶ「変則」(大学南校)
  • 学制の定めた正規の課程に準拠した「正則」、異なるものを「変則」(文部省)
  • 西洋の学校のような段階的・系統的な学問の順序による「正則」、教授の順序に拘らず急成を主とする「変則」(慶應義塾

(参考: 茂住實男『洋語教授法史研究』学文社, 1989)
「正則と変則」には、だいたい以上の3通りの解釈があって、必ずしも「訳読=変則」「オーラル=正則」でないことが分かる。
そもそも、訳読は決してオーラルの対極にあるものではない。私の頭の中で、一番に浮かぶ「英語の達人」は、その両者を極めた人だ。英語教育界が、その歴史の中で、いずれか一方のみを信奉したり排除したりすることができなかったのは、当然と言えば当然のことだろう。教養と実用が、対立するものでなかったように。
これからの英語教育は、「両立」がキーワードかも知れないな。