教授法って

教授法の歴史を行きつ戻りつしている。アマゾンのマーケットプレイスから次の本が届く。
伊藤嘉一『英語教授法のすべて』大修館書店, 1984.

これは持っていなかったのよね、と先日慌てて注文をしたら、すぐに届いた。
ナナメ読みをしながら思う。大文字のMethodを貫く授業って、無いよね、と。かつての教員研修会は「教授法」の伝授が行われていたのかも知れないが、このごろはむしろ、指導法のシェアが主流なのではないかな、と思う。
わが英学史支部の紀要『英學史論叢』第1号(1998)をめくってみる。「変則よし、正則よし、Principled Eclecticismへ」という論考に目が止まる。続く「コミュニケーション時代の英語教育」という論考では、様式化された画一的授業からの脱却を求めている。
特定の「教授法」を信奉する時代は終わり、目の前の個に対応するための「折衷」が主流の昨今。折衷のサジ加減は各教師の好みによるのだろうから、どのような扱いにも堪えうる教科書は、便利だ。かつては、口頭教授を狙った教科書が訳読の素材となった例も多い。
教え方を規定しない、素材としての教科書。扱う教師のワザの見せ所、といったところか。