ことばと向き合う

「日本英学史学会中国・四国支部ニューズレター」No.70「エッセイ」

 どこまでも広く,どこまでも深い。そんな「ことばの世界」を森,林,海などに例えることがある。その名称中に「林」や「海」を含む辞典は,こうした比喩を意識したものだろう。話題の国語辞典『大渡海』(だいとかい・玄武書房刊)は,23万の語数を誇る。語釈は行き届き,バランスと精度に富み,使っても読んでも楽しい。だれかを守り,だれかに伝え,だれかとつながりあう「言葉の力」を自覚する人々によって編まれた。装幀も,紙質も,プロの仕事ぶりを感じさせる見事な出来栄えだ。
 辞書のあれこれを思い,わが身を振り返ってみる。英語教師の私の周りには言葉が常にある。テキストを中心とした読みの授業では,その準備に英和,英々,和英,国語,漢和をはじめとする種々の辞典が欠かせない。未知語と,気になる既知語も辞書にあたる。語義に添えられた例文にふと笑みをこぼすこともある。自らの頭の中の語彙と,手元の辞書と,テキストとの間で,連想を紡いだり,彷徨ったりする。ことばは広くて深く,軽くて重く,明るくて暗い。まさに「宇宙」でもある。

 その宇宙を凝縮した辞書を書く人たちがいる。彼らの生活が尋常でないことは,『ことばの海へ』(『言海』),Caught in the Web of Words(OED),『斎藤秀三郎伝』,『わたしの英語遍歴』(田中菊雄)などにも描かれている。これら超人伝を読むたび,ひたむきに「ことば」に向き合う辞書家の姿に惹かれ,自らもそうした日々を過ごしたいと思う。(青銅の腸を持ち合わせないのが残念だ...)
 もっとも,何か一つのことを行うにも,ある種の「総合力」が求められる。英語と向き合うには,日本語や他の外国語の知識はもちろん,語にまつわる背景知識や,実体験も重要だ。英語教育であれば,ことばのことだけでなく,教えるための様々な制度や機器の導入も守備範囲となる。例えばカリキュラムやシラバス,授業のマネジメント。母語話者との授業や海外研修制度。eラーニングは CALL からスマホやタブレットへと主軸を移し,クラウド化は加速の一途をたどる。仕組みや道具についての情報収集力,運用力,具現化するための書類作成力や政治力。学生や同僚とのコミュニケーション力。なんでもこなす力が求められ,教師は「総合的に」忙しくなっていく(ふぅ...)。だからといって,諦めるのではない。何でも来い,と立ち向かおう。ただ,純粋に「ことば」と向き合う気持ちと,時間は大切にしたい。そうでないと,本末転倒になる。
 上の『大渡海』は,『舟を編む』(三浦しをん著,光文社,2011年)という小説に出てくる架空の辞書だ。フィクションとは言え,この小説は言葉と向き合う人々の,妙なリアリティを感じさせる。読んでいる最中,私は部屋に積んである本の中から,あの辞書も,この辞書もと抜き出しては,傍らに置いた。『舟を編む』は,読めば確実に辞書を引きたくなる本だ。そして,辞書と言葉のあれこれを,だれかと語り合いたくなる。
 読了し,ふと思った。私は日々,ことばと向き合っているだろうか。ほかのことに気を取られ,大切なことから遠ざかっていないか。何もかも中途半端なまま,気がつけば舟を漕いでばかりいるのではないか。

 もう一度,ことばと向き合い,地道に「編む」方へ進んでみようか。どうにもやはり,そこが原点のようだ。