ブログは大変、の続き

前に、ブログは大変、ということを書いて、そのときはせっかく書いたのに消えてしまった記事のことを取り上げて、今度また書きます、で止まっていたのです。そのときに書こうとしていたのは、次のようなことでした。

新しい学習指導要領案の中学校外国語の目標を見ると、これまで「実践的コミュニケーション」となっていたところから「実践的」が姿を消したようです。昨年末に、出向先の英語科教育法4(4年生対象の選択授業)で、新指導要領の予想をしてみました。指導語数については、学生諸君の予想が今回の「案」にかなり近かったのが印象的です。
その「予想」の際に、「コミュニケーション」という言葉が姿を消すのではないか、という大胆な発言!をしました。予想というより、そこまでやったらスゴイよね、という調子で話をしたのですが。
コミュニケーションはとても広く、深く、言葉の教育を語る上で「いわずもがな」のことで、これを言葉に出すからあれやこれやと見解の相違が顔を出すのではないかな、と、つねづね思っています。聞くこと話すことだけなら「実践的」がついて、書くことと読むことが入ったら「実践的」は消えるのね、というイジワルな感想も出てきそうです。
コミュニケーションは言葉を教え学ぶ上では「あたりまえ」だけど、コミュニケーション観は人によってずいぶん違います。だから、まあ、「コミュニケーション」を掲げた公的な文書には、つい警戒心を抱いてしまうのです。自分で書くときは、使って便利な言葉なのだけどね。
さて、僕がコミュニケーションと聞いて最初に思い浮かべるのは「以心伝心」。そして僕は、目に口ほどのものを言わせる俳優さんが好きです。だって、伝えているのだもの・・・。
まあ、それはそれとして、
コミュニケーションが目標の文言に含まれると、「空気を読む」教育が必要になるのかな、と心配になるのです。母語でも空気を読むのは至難のわざ。ましてや、外国語です。
語用論に興味を持って、いろいろと拾い読みをしていた時期があります。そこでは「空気を読む」メカニズムを言語化しようとする試みがなされているように感じました。
それはそれで面白いのだけど、外国語教育の場で必要なことは、次のようなことではないかな、と思い始めています。
異なる文化的背景を持つ人との対話は、「空気が読めない」ことを前提として、空気が読めないんだからちゃんと言葉で分かるように伝えようよ、という姿勢が必要なのではないか、と思うのです。だから、結局のところ、コミュニケーションのストラテジーではなくて、ストラテジーに頼らない伝え方、必要なことをきちんと言語化して分かり易く伝える、ということが必要なのかな、と思うのです。
少なくとも学校現場では、「ストラテジー」以外のところをしっかりと、地に足のついた形で教えていくことが大切なのではないか、と思いながら、談話や方略や社会言語学的能力の前に、文法能力を鍛えることこそが、空気を読むことを前提としない異文化間のやりとりには重要なのではないかな、と思うのでした。